3月26日の「ヨガと英語」という記事で、英語ができるメリットについて伝えました。しかし、ヨガを勉強する上で言葉に捕らわれてはいけないなぁとつくづく思います。
「不立文字 教外別伝(ふりゅうもんじ きょうげべつでん)」という禅の言葉があります。悟りの道は文字や言説では伝えられず、文字に書かれていないものを特別に伝授するのが禅であるという意味です。
ヨガも同じです。アルーン師匠はあまり多くを語りません。よくしゃべりますが、いつもクラスでは冗談ばかり言ってます。(むろん、カンナダ語で言っているので何を言っているかわからないのですが。他のインド人の生徒に聞いたら、「ほとんど雑談だよ」と言ってました)そんなアルーン先生ですが、私がアルーン先生のことが好きなのは、彼の広い心であったり、また生徒がいかに楽しく、長く、そして健康的にヨガを続けられるか考えられていると感じるからです。もちろん、アライメントもさりげなく教えてくれますが、彼からは何か実用的なテクニックを学ぼうというのではなく、彼が創りだしている雰囲気であったり、ヨガの流れを真似たいという思いがあります。
ヨガと禅は似ているところがたくさんあって、禅の勉強はヨガの理解にとても役立ちます。私たち日本人にとっては、禅のほうが親しみやすいので、時々禅についても勉強しています。
以下、尾山広平さんのHPより抜粋します。
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宗教は「信じましょう。」といい、哲学は「考えましょう。」といい、禅は「信じる必要はない、自ら体験しましょう。」といい、ヨガは「考える必要はない、自ら体験しましょう。」といいます。
まず宗教では、「存在」の答えを知ることで“完全に”満たされるというのです。言葉を変えると、“救われる”とか“幸せになる”ということです。次に哲学では、「存在」について考えることで、答えを出そうとするのです。ところがしかし禅は言うのです。頭で理解するだけでは、満たされませんよ。「頭で知る」だけでは、「知る」ことにはなりませんよ。
そしてヨガは言うのです。頭で考えていては、答えは出ませんよ。「頭で知る」だけでは、「知る」ことにはなりませんよ。
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英語では“Knowledge(知識)”と”Wisdom(知恵)”という言葉でよく説明されます。ヨガや禅は知識を追及するのではなく、知恵または智慧を身に付けるのだと。
この知恵を極めるために、英語をマスターするのも手段の一つですし、本をたくさん読むのも手段の一つです。ただ、言葉に捕らわれすぎると本質が見えてきません。本質を見抜く力をヨガでは養っていきます。
十人十色のヨガの極め方がありますので、それぞれ自分に合った方法を試すことが大事です。それが最終的に「自分とは誰か = 悟り」につながると思います。
先日、「日本の桜は満開ですか?」とLineでヨガアソビ桜木町のみんなに聞いたところ、みなさんから素敵な桜の写真が続々と届きました。桜の素晴らしさを言葉で説明するのは難しく、写真にも限界があります(とはいえ、頂いた写真のカメラワークは目を見張るものがあり、かなり感銘を受けました。ありがとうございます)。やはり自分の目で見て、感じるのとは違います。ヨガも同じ。本やDVDでも勉強できますが、気に入った先生と練習するヨガは全く別のものです。だから私は足しげく、インドに通います。いい先生がいると聞いたら、どこにでも飛んでいきます。
よくいろんな方に「修行はいつ終わるの?」と聞かれますが、ヨガ修行は死ぬまで続きます。言葉で伝えきれないものを勉強しているので、一生かけて本質を見ていくつもりです。
以下、みなさんから頂いた桜の写真。みなさんの写真が綺麗すぎて、何度も何度も見てしまいました。